西大寺縁起

皆足姫と安隆上人の奇蹟/犀戴寺から西大寺へ

吉井川畔に堂塔伽藍が鎮まる西大寺は、今から約1200年昔、天平勝宝3年(751年)周防の国(山口県)玖珂庄に住む藤原皆足(ふじわらのみなたる)姫が観音菩薩の妙縁を感じて金岡の郷に草庵を開基し、千手観音を安置したのが創まりであった。

今から遠く1200年ほどの昔、周防の国、玖珂の庄に藤原皆足姫という女性が住んでいました。姫はことに観音信仰に篤く、持仏堂に千手観音を安置し、自ら念持仏として崇めることを願いとしておりましたが、何分、千二百年も昔のことで、仏像を造る仏師にも巡り合えずに、いたずらに日を過ごしておりました。

ある日、紅顔の仏師が一夜の宿を求めて参りました。姫は長年の願いが叶えられるのはこの時とばかり、用意していた香木を持ち出し、観音菩薩の彫刻を依頼致しました。仏師は「仏像が完成するまで決して見に来てはならない」と言って、一室に閉じこもって彫刻を始めました。

ある日、姫が部屋の前を通りかかると、話声が聞こえますので、不思議に思って部屋を覗き見しますと、それは観音像と仏師の問答でした。 

姫が約束を違えた事を怒った仏師は戸外に走り出ようとしました。 それを姫はおしとどめ「御身はいずこの人か」と尋ねますと、仏師は「我には名も無く、生まれたところも無い、ただ大和の長谷が仮の住まいである」と答えて、掻き消すように姿が消えてしまいました。

大和の長谷と言えば、古くから観音霊場の聖地として知られておりましたので、姫は、さては、あの仏師は長谷観音の化身であったかと覚り、お礼参りと、飾り付けをするため、観音像を舟に積んで、現在の奈良県の長谷に向かって船出しました。

途中、皆足姫の夫、藤原泰明は、備前の守護職をしておりましたので、仏像を積んだまま吉井川に舟をつなぎ、夫のもとに参りました。
数日逗留の後、再び舟を出そうとしましたが、どうした事か舟は微動だにしません。それは何十人何百人もの力を借りても同じことでした。

そこで観音像を舟から降ろすと、楽々と舟は岸を離れましたので、姫は、この地に留まることが観音のおぼしめしと、やむなく小さなお堂を建て、そこに仏像を安置(現在の西大寺金岡)して、自らは長谷寺に参詣して帰郷したという事です。

絵巻

その後、宝亀8年(777年)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が大和の長谷寺で修行三昧されていたとき”備前金岡庄の観音堂を修築せよ”と夢にお告げがあり、上人は直ちに西国に下向し藤原皆足姫の擁護のもとに海路を船で急ぎ金岡の庄に向かう途中、児島の槌戸ノ浦にさしかかった時、犀角を持った仙人(龍神)が現れて『この角を持って観音大士影向の聖地に御堂を移し給え』と霊告された。

絵巻

こうした多々の奇縁に感涙した上人は犀角を鎮めた聖地に堂宇を建立し、法地開山されたのが起源で、このとき寺号を犀戴寺(さいだいじ)と称したが、後年には後鳥羽上皇の祈願文から賜り西大寺と改称した。

西大寺観音院絵巻

しかし、そうした寺運の由来も、時代の変遷に幾度か罹災し、多くの文献を失ったが、永正4年(1507年)の金陵山古本縁起に依ると正安元年(1299年)に消失した記録に、本堂、常行堂、三重塔、鐘楼、経蔵、仁王門等を構えた、地方屈指の大寺であったことをとどめている。

更に、堂塔伽藍を護持する塔頭も、成光寺、清平寺等の僧坊が古文書の中に散見し、後に観音坊と称する一宇が建ち、この坊舎がいつの頃にか西大寺一山の本坊となり、現在の観音院に変革したことを偲ばせている。この様に時代とともに大きく発展してきたのも、開山の安隆上人が東大寺で厳修する修正会を伝え、やがて民俗行事に結縁したことが、寺運高揚の要因となったが、一方で吉井川の河口が備前の要港として栄えていたことも、庶民信仰の大きな支えであった。

現在、天下の奇祭とたたえられる会陽(裸祭り)の斎事は、宏くこの寺の交流を育んでいる。